同友会メディカルニュース

2012年7月号
遺伝情報を用いたオーダーメイド医療の時代が、すぐ近くまで来ています。

今年1月、アメリカの研究機器開発メーカーがヒトの全ゲノム(遺伝子情報)を3~4時間かけて1000ドル(約8万円)で解読する次世代DNAシーケンサー(遺伝子解読装置)を今秋にも発売すると発表(*, 図1)し、研究者の間に衝撃が走りました。今回のメディカルニュースでは、このニュースがなぜ衝撃的で、これからの医療にどのように関わってくるかについてお話します。

遺伝情報

図1:米ライフテクノロジーズが年内に発売する次世代シーケンサー
「イオン・プロトン」(ライフテクノロジーズHP資料から引用)

私たち日本人は、欧米の人と比較して少し太っただけで糖尿病になりやすい事が知られています。血縁者に生活習慣病やがんが多いことを気にしている方もいらっしゃるかもしれません。同じ病気にかかっても人によって薬の効き目に大きな違いがあるという事実も以前から指摘されてきました。もっと身近なところではお酒に強い人と弱い人がいて、昔は飲めないのは根性が足りないからだ!などとずいぶん乱暴な事も言われましたが、今ではアルコールを分解する酵素の強さに遺伝子上の違い(遺伝子多型)がある事が分かっています。このように私たちが「人種差」「家系」「個人差」「体質」と思っている事の基本部分の多くは、体の細胞の中のDNA(遺伝子)によって決められています。

そこで、人の遺伝子暗号を全部調べ上げればその人が将来どんな病気になりやすいのか、またどのような治療が向いているかが分かり、一人一人に適した予防や検査、治療を行う画期的な「オーダーメイド(個別化)医療」が実現できるのではないか?そう考えた世界中の人たちが集まって1990年に「国際ヒトゲノム計画」を立ち上げました。人の細胞の中にはおよそ31億ものDNA配列があって、計画が始まった当初は100年かけても無理という人もいましたが、技術の進歩は目覚ましく、13年の歳月と30億ドル(2400億円)以上を費やして2003年にはヒトの全ゲノム解読を完了したのです。

現在は解読された情報を基に研究が進められていて、例えば肥満や糖尿病、認知症などに関連する遺伝子の個人差(多型)が数多く見つかっています。最近では血圧に影響する16の遺伝子の場所を新たに同定したとする報告(Nature 2011; 478: 103-109)もありました。将来的には、こうしたデータに基づいて栄養や運動についてその人の遺伝子情報に応じて個別生活指導を行えば、その効果をより高められることが期待されています。がんについても前立腺がん、乳がん、肺がん、大腸がん、膵臓がん、胃がん等を中心に遺伝子研究が進んでいて、がんの発症に関係すると考えられる遺伝子多型が既に100種類以上報告されています。治療においても最近は前もって遺伝子検査で効果が期待できるか調べてから治療薬を選択する事が増えつつあり、個別化治療は既に現実のものになっています(表1)。

表1:個別化医療の対象になるがんと抗がん剤

がん 薬剤名(一般名) 効果を予測する因子
乳がん ハーセプチン(トラスツズマブ) HER2タンパクの過剰産生
胃がん ハーセプチン(トラスツズマブ) HER2タンパクの過剰産生
肺がん イレッサ(ゲフィチニブ) EGFR遺伝子の変化がある
大腸がん アービタックス(セツキシマブ)
ベクティビックス(バニツムマブ)
KRAS遺伝子の変化がない
慢性骨髄性白血病 グリベック(イマチニブ) Bcr-Ablタンパクの産生

このように治療を目的に特定の遺伝子だけを調べる事はすでに一般に行われるようになってきましたが、個人の全DNAを一括して網羅的に調べるとなると、これまでは技術とコストの壁が大きく立ちはだかっていました。最初のヒトゲノム計画では13年と30億ドルかかったわけですし、昨年膵臓がんで他界した米アップルのスティーブ・ジョブス氏は生前に10万ドル(約800万円)かけてゲノム解析を受けていたことが死後に出された自伝の中で明らかになっています。その後の技術革新をもってしても、現在1人分のゲノム解析には安くて約3000ドル(約24万円)、平均で50万~250万円の費用がかかり、時間も1~2週間要するとされています。

そこで冒頭のニュースとなるわけですが、コスト1000ドル(約8万円)で数時間で解析できるシーケンサー(解読装置)が本当に現実のものになれば、急速な普及を促すと予想されています。専門機関に委託しなくても病院にシーケンサーを設置して、血液検査なみの時間で結果を出し、その場で診断や治療・予防に役立てる事が出来るようになれば、科学的に確立したこれまでの「標準的」な医療から、本格的な「オーダーメイド(個別最適化)」医療がいよいよこれから始まるのかもしれません。

まさに「ヒトゲノム革命」ともいうべき画期的な状況ですが、注意しなくてはいけない事もたくさんあります。

まず、ほとんどの生活習慣病やがんでは複数の遺伝子が複雑に影響し合う事が分かっていて、一つの遺伝子の解析で正確に予測する事はほぼ不可能です。また一卵性双生児を追跡した大規模研究では遺伝だけで病気を説明できるのはせいぜい40%で、遺伝よりも生まれてからの生活環境による影響の方がずっと大きい事が示されています。そもそも遺伝子検査は多くの場合リスク(危険性)評価であり、検査で指摘されても必ずその病気になるわけでもありません。こうした事を踏まえて検査結果を正しく理解し適切に利用する必要がありますが、私たちの国では明確な遺伝子検査のガイドラインはまだ策定されていません。

また、遺伝子は生涯変わらない「究極の個人情報」であり、検査の実施には倫理的、法的、社会的な配慮が十分になされる必要があります。まだ治療法が見つかっていない病気が分かってしまうかもしれないし、結婚や雇用、保険加入等で差別を生む恐れがあります。検査結果を仮に本人は受け入れたとしても、近親者の遺伝子情報まである程度は分かってしまう事になります。検査実施の前後にはしっかりとした遺伝カウンセリングが必須ですが、そのための人材育成はまだとても不十分です。アメリカでは2008年4月に「遺伝情報による差別禁止法」が制定されていますが、日本ではそうした法整備もまだです。

今は遺伝子検査の数ばかり急増して、臨床医や患者よりも検査会社の方が情報を大量に保有しているという不安定な状態です。結局のところ解析の進歩があまりに早く、それを使いこなすための社会の体制がまだ追いついていないのです。実際に科学的根拠が乏しく実施前後のフォローアップ体制もない中で、利潤追求のための遺伝子検査が世界各国で広まりつつあります。日本でも子供の性格や才能が分かるなどとうたった科学的根拠のない遺伝子検査ビジネスが横行しているとして、今年3月に日本医学会が国による監視体制や法整備を求める提言を行っています。

このように遺伝子の解析と利用に関わる医療はまだまだ黎明期の混乱の中にありますが、今後の医療の姿を大きく変える可能性を有していることも間違いありません。これからもこの分野のニュースには十分注意を払っていく必要がありそうです。

* http://www.lifetechnologies.com/us/en/home/about-us/news-gallery/press-releases/2012/life-techologies-itroduces-the-bechtop-io-proto.html

参考資料:

  • 遺伝子医療革命 ゲノム科学が私たちを変える フランシス・S・コリンズ NHK出版 2011
  • 実験医学2012.No.1 がんゲノミクスで挑む次世代のがん研究
  • 総合健診 特集 総合健診と遺伝子検査 2010/3
  • 日本経済新聞電子版記事

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